藤堂高虎
こんにちは。
豊田シティ法律事務所の弁護士米田聖志です。
さて、大河ドラマ「豊臣兄弟!」をみていますが、藤堂高虎が登場し、秀長の家臣となりましたね。
この当藤堂高虎は、築城名人と言われており、津藩32万3000石の藩祖として、津城にその騎馬像があります。また、そこに遺訓が記されており、そこには、
藩士たるものは、朝起きたらその日が死番と心得るべし
と書いてあります。
毎日を今日こそが死ぬ日だとの覚悟を持って生きよ、ということですね。
高虎は、家康にも信頼され、最終的に大大名となっていますが、低い身分から成りあがった苦労人でもありました。
75歳で亡くなりますが、亡くなったとき、身長190センチにものぼる身体には弾傷、槍傷で隙間なく、右手の薬指と小指はちぎれ、左手の中指も短く、爪がなかったとされ、左足の親指も爪がなく、満身創痍の身体だったそうです(大河ドラマでも姉川の合戦で、足軽として戦ってましたね)。
近江出身の高虎の実家は、昔は領主だったそうですが、農民にまで身を落としていました。
高虎は最初、足軽として、浅井長政のもと、姉川の戦いで奉公し、織田信長方の敵首を取って武功を現し、豊臣秀吉同様に、低い身分から成りあがりました。
転々と仕官先を変えて、流浪生活をし、無銭飲食もしたこともあったそうです。
天正4年(1576)に秀吉の弟の秀長の家臣となって、300石をもらい、やっと出世の糸口をつかみます。
その高虎を裏切者、寝業師などという人もいるようですが(7人もの主君を変えたということもあり)、最後は家康に忠節を尽くし、外様ながら譜代に準じる厚遇を得ます(それだけ信頼されていた証拠です)。
裏切者とかいう誹謗中傷は、その出世があまりに鮮やかだったからついたものでしょう。
高虎は、ドラマでも描かれていいますが、苦労人で人生の酸いも甘いも知り尽くしていたからこそ、武士の人生は日々死番といいながら、人情に厚かったそうです。
高虎は、家臣に「自分が嫌になったら、他へ使えてもよい。そこが嫌になったら元の禄で召し抱えてやる」といい、本当に戻ってきた家臣にそうしたそうです。
不思議がる者たちに高虎は「臣僕を使うのに禄だけでは人は心腹しない。禄をもらって当然と思っているからだ。人に情けを掛けねばいけない。そうすれば意気に感じて、命を捨てて恩に報いようとするものだ。情けをもって接しなければ、禄を無駄に捨てているようなものである」と語ったといいます。
この言葉は、現代の経営にも通じるものがありますね。
- 2026-05-28
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- by 豊田シティ法律事務所












